1985年8月12日午後6時53分、群馬県多野郡上野村の通称「御巣鷹の尾根」に、日本航空のジャンボ旅客機が墜落する「日本航空123便墜落事故」が起きました。機長は高濱雅己さん。お盆の帰省ラッシュで機内はほぼ満席であり、乗客・乗員524人のうち、生き残ったのはわずか4人という未曾有の事故で、坂本九さんが乗っていたことでも有名です。
2023年11月14日放送の「ザ!世界仰天ニュース」にて、「日本航空123便墜落事故」が特集されました。
今回の記事は、機長は高濱雅己さんのご家族について調べてみました♪
日本航空123便墜落事故の機長|高濱雅己の画像/Wiki/経歴は?
生年月日:1936年1月2日
出身地:宮崎県 延岡市
居住地:千葉県(当時)
最終学歴:京都市内の高校を中退
職歴:
・高校中退後、海上自衛隊に入隊
・富士航空など国内の航空会社に就職
・1966年12月1日 日本航空に入社 1966年、自衛隊と民間航空会社との間でパイロットの安定確保を目的とした「割愛制度」により、日本航空に入社されています。この後、機長まで上り詰め、1977年に機長認定を受けることができています。これで副操縦士を従えてのリーディングとなり、単独飛行が可能になりました。
妻、息子、娘の名前画像は?
<ご家族構成は?>
高濱雅己機長の家族構成について調べて見ましたが、長男の方は赤ちゃんの時にお亡くなりになられているそうです。機長には、次男、長女、次女の3人お子さんがいらっしゃるとのことですが、次男の浩司さんについてはあまり情報が出てきませんでしたので、長女と次女について調べて見た結果をまとめてみました♪
長女→高濱機長の長女である洋子さんは、父と同じ日本航空に就職し、CAになりました。
事故当時、「死亡者数519人」と非難され、家族として辛い思い出もありますが、洋子は父と同じ道を歩むことを決意したそうです。それが母をさらに悲しませることもわかっていましたが、「父の遺志を継ぐ」「父を誇りに思う」という思いは、多くの人の批判や自分自身の不安をよそに、一歩前に進みました。
航空業界で女性として数々の困難を乗り越えられてきましたが、高濱機長は娘の勇気と向上心、そして夢を追い求め、最終的にキャリアで成功した彼女の強さに、賞賛の念を抱いていることでしょう。
次女→明子さんは、毎年8月12日にご夫婦で御巣鷹の尾根を訪れ、父親の墓石に手を合わせています。この日、昭子さんは父から聞かされた話を思い出しながら敷地内を見渡し、同時に若い世代の親族に父の伝説を語り継ぐのだといいます。
明子さんの娘は高濱機長の孫にあたりますが、生きている姿を見たことがないにもかかわらず、幼い頃から彼を愛し、敬うことを教えられてきました。
墜落した機体を操縦していた高浜雅己機長(当時49)の次女で、東京都目黒区の主婦、続(つづき)明子さん(44)は長女(9)と夫ら親族計9人で慰霊に訪れた。墓標に両手を合わせて祈りをささげた後、空の父へ伝えるかのように墓標の前で家族写真を撮った。
機長の次女、墓標に祈り「孫娘の成長見届けて」 日航機墜落 – 日本経済新聞 (nikkei.com)
世間の反応は?
日航機事故の陰謀論本を信奉するアカウントが、高濱機長の娘さんに粘着してしつこく誹謗中傷しているらしくて見に行ったら、以前ワクチンデマを指摘した後に延々と食い下がってきた奴だった。本当に陰謀論者はどうしようもない
X(Twitter)より
日航ジャンボ墜落事故に関して、高濱機長をはじめとするクルーの過失は一切ない。
X(Twitter)より
機体の異常は、飛行前にはクルーには発見不可能。
4系統の油圧装置が全て破損してしまっては、ジャンボジェットの全ての舵面が操作不可能。最終的に操作可能だったのはエンジンスロットルのみ。
日航機墜落から37年 新たに酸素マスクが発見された
X(Twitter)より
当時発見されたブラックボックスに入っていた高濱機長の墜落6分前の
「頭(機首)下げろ がんばれ!がんばれ!」との必死の言葉が思い出される
最期まで機体を立て直そうと全力を尽くした今年も心よりご冥福をお祈り致します
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